正確にはズル休みと言うよりも風邪をひいていたので熱っぽいけど学校に行けなくもないような状態でしたが、当時中学1年生の僕はズル休みをして布団の中に居ました。
ズル休みをしたらふつうは起きてNHKの教育テレビを見るのが普通ですが、その日は両親共働きの私の家でもなぜか両親共に仕事は休みで畑仕事をしていたのでおとなしく布団の中に丸まって具合が悪いふりをしていました。
なぜ、10年前の今日の事を鮮明に覚えているかというと、別に好きな女の子がおうちにお見舞いに来てくれたとか、お手紙を書いて持ってきてくれたとか、ノートを貸してくれたとかそういうことが起きたのではなく、僕の人生に大きな影響を与えることが起きた日だからです。
実は10年前の今日の事を日付で覚えていたわけではなく、その出来事がたまたまWikipediaの今日の出来事の欄に小さく書いてあったのを見て思い出したわけです。
10年前の今日2003年5月26日に三陸南地震というやや大きい地震がありました。あまり印象に残っていないのは被害が少なかったからでしょう。津波も起きませんでしたし、新幹線の高架橋やトンネルがちょっと壊れた程度でした。
この地震で僕はある体験をすることとなり、その出来事がきっかけで今居る大学の今居る研究室に居るのだと僕は思います。
三陸沿岸とりわけ岩手県大船渡市では大きな地震が起きたら津波が起きるということを小学校の頃から熱心に総合学習などで学んでいますし、僕も地震が来たら津波と内陸に住んでいてもすぐ思い浮かべます。
ですから地元の人は大きな揺れですぐに津波の心配をします。
ちょうど宮城県沖地震が5年以内に起こる可能性が98%と騒がれていた頃で、その宮城県沖が起きたのでは?と脳裏に浮かんだ人も居たでしょう。しかし、幸い大きな津波も起きませんでしたし、宮城県沖地震でもありませんでした。私の記憶が正しければこの地震から毎年、大きな地震がこのあたりで起きるようになっていきます。
停電も大規模に起きなかった為テレビを見れたのは情報収集において良かったと思います。しかし、大規模災害が発生した場合に本来なら情報伝達手段として使われるはずの同報系防災行政無線からは何も聞こえませんでした。うちの地区は昔からテレビもラジオもアンテナを伸ばした程度では受信できず、テレビはちょっと離れた山の上にアンテナを立てて共同で電波を分配して見ています。
そこで、停電時には電池駆動でも動く同報系防災行政無線の受信機が各家庭に配られており、災害時には情報を得ることができるようになっています。
しかし、地震が起きた日には停電も起きなかったにも関わらず、何も放送されません。もし停電でも起きていて、テレビも視れず、大きな津波が来る予報が出ていたらどうなっていたのでしょうか。
当時中学生だった私はなぜ同報系防災行政無線が機能しなかったのか疑問に思い調査しました。結論から言えば、同報系防災行政無線の仕組みに明らかな欠陥があったということです。
僕の実家は旧気仙郡三陸町というところにあり、大船渡市に吸収合併されました。その際に同報系防災行政無線のシステムを旧大船渡市のシステムと接続しましたが、時報のタイミングが大船渡市と違っていたいたことと、慣れ親しんだ音楽から切り替えてしまったことと、その変更を行うことへの周知がまったくなかったことで旧三陸町民の間から元に戻してほしいとの要望が多数あり、旧システムに戻した経緯があります。
その際に旧大船渡市と同じ原稿で同報を流す必要が生じてしまったため、原稿が送られてこなければ勝手に放送してはならないという事態が生じてしまいました。通常、その原稿は一般の加入電話回線を利用したFAXで送られていたため地震直後は安否確認の電話で電話回線の輻輳が生じ原稿を送ることが出来ず、旧三陸町の送信所では放送原稿が無く、放送できないという事態が生じたとのことです。
このような事態が発生したため直後にシステムの改修を行い時報はそれぞれの地区の今まで通りでそれ以外の放送は市内全域で統一されたとのことです。
東日本大震災ではどうだったのか、僕は居合わせていなかったのでわかりませんが、記録映像にはサイレンの音が入っていたので機能していたものと思います。
今、大船渡市内では同報系防災行政無線のデジタル化が進められ、市内の希望する全世帯に受信機が貸与されています。
10年前の今日の出来事を調べていくうちに情報伝達の手段というモノについての興味関心が湧き、いつの間にか災害時の通信について研究する研究室に在籍していました。
やはり10年前の今日、僕はズル休みして正解だったのかなと思いました。
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| 10年前の今日何も伝えることが出来なかったアナログ式同報系防災行政無線受信機 |
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| 市内で整備が進むデジタル式同報系防災行政無線受信機 |

